人の気があるから
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目の前に呆然と座る人を電車のなかでみてしまった。晴れやかなこの時期に、悲しすぎる人を観るのはつらい。中学三年生の春と大学受験の春、ぼくも同じだった。ただねじの切れた人形のように電車にゆられていた。ただ受験にミスしただけなのに人生の落伍者のようおもう気持ちもわからんでもないが、そんなことはないからね。ミスを咎めるだけの社会は可笑しいと半分の人はおもっているよ。木の芽どきだからだろうか、遠くでは騒ぐ人がいる。その気勢が、生きてれば善いと言っているようだ。
その人が今、どんな状況に置かれているなんて事はただ傍観していてはわからない。聴いてみなければ。それができないのが人間でもあるが。大好きな人を失った人が、やけにから元気なんて、よくある話し。それを察することができるかどうか、が人間とちゃう。人はとんでもない状況下では、自己防衛したり周りから見ていると訳のわからない行動をとる動物なのだ、それはあなたにもあることを肝にめいじておかなくてはいけない。
ただミスをしたりウソでごまかした人間を、集団で突き上げたりする、それがTVのニュースという形で街では垂れ流され、一方ではいじめはいけませんなぁ、なんてコメントする人が「人を騙すなんて許されません」なんて法律上の解釈だけを言う。組織のなかで安住して、いち個人を抹殺する権利などどこにもありゃしないのだ。大多数の組織で魔女狩りをし、一個人を突きあげるのはリンチであり「これこそがイジメの本質なのである」と、コメントするためにコメンテーターはいるのとちゃうの。それに喧嘩は面
と向かい一対一でやるもんちゃうの。
また同じような障害で悩む人を、こうしたバッシング行為で別の差別を生みだすことに加担していることも分かりゃしない。手話より先に話し始めた、その根拠は科学的に示せるんだろうか。あの大多数とひとりの状況下で、激しい口調でなじる相手が怖くなって何かを言わなければと自己防衛に走るのが人間だと、僕はおもうが。
河内のかみだBeethovenだと祭り上げたのはマスコミ側であって、なぜそうなったかは検証も反省もされず、世の中を惑わしたいだけ。それよりいい楽曲のひとつがこの世から抹消される、そんなことが許されてよいのか。「節約だ」「贅沢だ」と戦争時豪語し、人を強要していく空気。いい人気分のおばかさんになってその戯れ言に騙されると痛い目にあう。演奏会を楽しみにしていた私は、聴けなくなったことが悲しい。石をもって、投げつける感覚は怖い。
好きな作家の作品を真似ることで、自分もあぁ成りたいとおもうのが人間なのだ。芸術家は、ある作品に触発されて似たような作品をかく。作家がどうあれ作品は作品。また科学や技術の発見は、全て人類共通
の財産とちゃうの。人は進歩前進するために真似をしたらあかんのやろか。音楽家や科学者のみなさんはどう考えてんのやろ。
私は実験をして卒論を書いたが、実験方法など過去の同じような実験の手法をまねただけである、コピペしていた、手順を正確に踏むそれが勉強だともおもう。実験データの処理は、コンピュータ会社にデータ処理をしてもらった。それをきちんとしたグラフにしてくれたのは、理学部のクラブの後輩だった。私は担当教授の手をお借りして考察しただけで、自分で卒論全てを仕上げていないと言える。
ラジオから流れてきた。『電車の中で小さな子どもが靴も脱がずに、座席に後ろ向きに座り窓から外をみてさわいでいる。その横には、なにを考えているのかわからない父親らしき人物。おもわず、注意した。そのお父さんからでた言葉は「いま妻が死んだのをみとどけてきたんです」と。子どもは父の姿をみて、なにかを察しているから元気でさわぐんとちゃうの。』
こんなとき法律や道徳はいらない、状況におうじた一対一の人としての関わり方が大事なんちゃうぅん。
よみびとしらず「ヴァイオリンのためのソナチネ嬰ハ短調 Sonatine
for Violin in C-sharp minor」〜『佐村河内守 弦楽作品集 シャコンヌ/大谷康子(2011)』を聴きながら。2014.3.20@KOBEポートアイランド
木の間なる そめい吉野の 白ほどの はかなき命 抱く春かな 与謝野晶子〜「白桜集」 |
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3月19日朝、有名なイギリスの豪華客船クイーン・エリザベス号の3代目が神戸に初入港した。9万トンの船体は巨大で、海面
から高さはビル20階建ほどの60m近くにもおよぶ。2世よりもひとまわり大きくなっていた |
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2014年7月30日 変更
136+189+226白ろ群青色
©Mac Fukuda1997
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