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(C)Copyright Mac Fukuda2010 |
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お寺がみじかにあったせいか、鬼が「わるもん」とは子どものころおもわなかった。それは鬼瓦のおにが、お寺を守っているからだと教えていただいていたからだ。この鬼瓦の絵をえがくのが大好きだった少年時代。近所の家の屋根にあった琉球のシーサーも最近まで鬼瓦の「ええもんのおに」だとおもい込んでいた。 それに絵本のなかの「おに」は、全てが悪いおにであるわけでもなかった。力の強いお相撲さんのような大男は、農民たちがこまっている畑の大きな石をいとも簡単にどけてしまう。だけど、さぁ困った。大男にこの石どけてくれると村の娘っ子を、お嫁さんにあげると約束してしまった。しかし、人は約束を簡単に破る。怒った大男は「鬼に豹変して、村を壊して娘をさらっていった、ひどい鬼だ」と村人は言う。それは村人の弁明めいていて、悪いことをするやつだから鬼だという。これは私の創作だが、こんな話しはいまでも有りそうなこと。 本来は人の良い力持ちの大男だったのに、評価する側の都合で勝手に鬼にされる。「ええもん」が急に「わるもん」に逆転するのである。このへんは事実をよく観ておかないと、えらいことになる。日本では、なにごともアバウトなのである。その割に地域特有の文化があり、それにそぐわない人は排除される。排除された者に自分の悪事をすべておしつけ、平気の顔するやからもいる。鬼より悪いやつがほんとは居るのだ。 しかし、排除するまえに本来は文化の伝承をして理解させる努力も必要なんだけれど。その大男と村の娘を仲良くさせて、ご機嫌よく村の力仕事をすべてこの大男のリーダーシップでやらせて、村は益々幸せになる、私が村長ならそうする。いろんなものを受け入れて行くほうが、世の中は化学反応がおきて新たな方向がみえてくるからだ。なんだって変えて行きながら、よい方向へむかわせるのがリーダーなのだとおもう。 子どもに「おに」はわるもんではないよ、それは人の見方で鬼にも成ったり、善い人になったりするのだからと。そんなことを言いながら、長田神社の「おに」を観たあと参道を歩るき、途中辰巳寿司でお決まりの鬼の金棒、巻き寿司を買って帰った。今年の恵方は庚、西南西。 「みんなおんなじ方向観て食べるなんて、ほんまおもろいなぁ」 「とうちゃん、しゃべったらあかんねんで」 「そやなぁここはだんまりの小沢流やね」2010年2月3日@神戸長田神社「追儺式」 983 |
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