「おじぞうさんはどっから来はったん」っと子どもが聞いた。そやなぁ、あるいて来たんかなぁ。「なんでここにおるん」そやなぁ、ここでなぁ子どもが事故でなくなってもたんや。それで危ないから気つけなあかんでぇ、っておじぞうさんが来て守ってくれてるんや。「おじぞうさんは子どもを守ってくれてんの」そやでぇ、だから大事にせんとなぁ。
おじぞうさんには、そこに来たわけはそれぞれにお有りだろう。そして、そのわけを知る人たちから大切にされているのだ。そして、地蔵盆に帰ってこられた子どもが喜ぶように、子どもの好きな飲みもの、お菓子やくだものがお供えされている。「あぁ私のこと、まだおぼえてくれてるんやぁ。うれしいなぁ」と。
「だけど私は、こんなにたくさんの供物食べる口がない。だから、遊びに来る子どもたちにあげてちょうだい」と。ここには生きている実感があるのだ、今の世の中それがないんとちゃうやろかなぁ。小学生の頃、横断中の子どもがひき逃げで死亡した。その子からもらうんやなぁ、っておもてボクは地蔵盆のお菓子をもらった。
子どもが育っていく課程で、地蔵盆ひとつが魂を教えてくれる。確かに仏教のお地蔵さんであるけれど、宗教色があるわけでも実はない。それが証拠に子どものころ、キリスト教徒の子どもも天理教の子どもも一緒にもらいに行ったし、こうした教会からのお供え物もあった。今からおもえば、学校では決して教えてもらえない、ええ学習になっているのだ。
実体とリンクしていなければ腑に落ちない。なのに学校の教科書に書いてあることは、宗教戦争など、腑に落ちないことだらけ。ほんとのところどうなのよ。インターネットで情報は手にはいるけれど、腑に落ちないのはこうした実体を体験してないから。実感を膚・ハダで知ることで、モノの根みたいなものが解る。人が生きてるってことは、そこにその人が活きた営みが脈々とあり、それを観させてもろてはじめてほんとの所が理解できるんとちゃうやろか。
子どもとともに 夕方8キロほど散歩した 地蔵盆の夜。「なんか、おじぞうさん。ちいちゃい家から出してもろてうれしそうやったなぁ」と。おまえこそお菓子に囲まれてうれしそうやでぇ。2010.8.23記@地蔵盆、神戸
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