「お山の寺で、ばあちゃんやじいちゃんおもい出すのはなんで」山登ってるやろ、その時にじいちゃんやばあちゃんが道を教えてくれてるからや。だからおもい出すのとちゃうか。違う道行ってみよか?「父ちゃん、ええん?」迷よう、この道が正しい? そんなものははじめからない。上までたどりついたらええんよ。
行方知らずにならんように、気つけて迷たらええんよ。ちゃんと「こっちやでぇ」と、教えてくれる魂が居るんやと信じて。それを人は天使アンジェロと言ったり、もうひとりの私と言ったりする。父ちゃんは信じてるよ、ちゃんと誰か居てくれてると。それは父ちゃんより先に死んだ兄ちゃんかもしれん。好きだった戦艦大和のおっちゃんかもしれんし、ばあちゃんかもしれん。きっと教えてくれると信じてるだけでええんよ。
「父ちゃん、また分けわからんこと言う」あんなぁ、人は信じてもろてるとおもうから相手に対して真剣になれるんよ。父ちゃんはお前のこと信じてるさかいなぁ、だから安心や。ときどきかんしゃく起こすけど、それはもしかしたら父ちゃんに似てしもたんかもしれん。ごめんなぁ。しょうもないことで、怒ったらあかんねんで、覚えときや。大切なんは、あんたの事大切やと信じている人がおる。そしてあんたも、その人のことが大切やとおもい、信じることや。
「じゃぁ、父ちゃんはなにを信じとう?」 あんたとおかあさんや。よこに居て欲しいとおもう人が大切や。だから、その次がじいちゃんとばあちゃんや。これで6人や。そんでもってそのまたじいとばあ、もう影しかみえんけんどなぁ。だから写真も大事なんやで、人はときどき忘れる、だけど写真はおもい出させてくれる、それがええんや。だから地震のあと、お金よりもなによりも写真や位牌が大切なんとちゃうか。神戸のときもそうやったんや。
お寺や教会で、なんでかしれんけど、大切な人のことおもい出す。どんな人でも人をおもわん人はおらんからなぁ。だから人は教会やお寺さんに行くのとちゃうか。宗教を信じてるとか言うまえに、自分の家族を信じんとあかんで。信じて大切におもて貰てるのに人間はときとして、まちがいをおこしよる。だけどそれで大切な人の手を離したらあかんのやで。離した方がわるいってことになるんやで。
待ってるのと、待たせるのは、どっちがわるいとおもう? 「人を待たせたらあかん。と父ちゃんいつも言うからなぁ」待つというのは、その人が大切やさかい、いつまでも待ってるんやで。その糸を信じてなぁ。だけどなぁ、父ちゃんも経験あるが現われへん人もおるんや。なんで約束したのに、と父ちゃんはその時怒った。でもなぁ、待たせる方が辛いんやでぇ、ホンマはな。それが解ったら大人に成った、って事かなぁ。
原発がどうなるかより、大切なことがある。放射能漏れは頭のええ人たちが命かけて最前の方法を考えればすむことや、そのためにその人の存在価値があるんやから。だけどなぁ、それですまん事もある。待ってはる人が東北には、今もたくさんおるんやでぇ。それが解るということが、大人に成ったということやで。「父ちゃんも、だれか待ってるんか」叫んでも届かんおもひがあるんよ。
@非力ですがKOBEからも応援しています。魂、命安らかに 2011.5.24記 前川清「神戸」を聴きながら。
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