「びわいち」なる言葉があるほど、今では琵琶湖一周する人が多いらしい。いいよなぁと。だって自分の住む町のシンボルを自分の脚で一周するのだ。そういう国は自分の住んでる町を、自分の感覚でわかる。明日地震が起きればあなたのその脚で歩かなければいけない、どれくらい歩けるか想像つきますか?神戸の震災の時は自分の脚が頼りでした。みなさんも歩きましょう、自転車に乗りましょう。
中高生時代、自転車で走っていた時とにかく水が欲しかった。水海、見てたら、少しはましになった。千年以上まえから水がめとして人々を潤してきたこの琵琶湖も、おとなりの原発という迷惑な住人によって脅かされている。数十年の技術だけでそれを無にするくらい電力会社は優秀でド偉いのだろうか?
琵琶湖疎水を造った人たちに、どう責任とれる? 年間一ミリシーベルトにしても、反故にされる。それを決めた学者だっているわけだろ、その科学者の苦労を無にしているのが今の状態だと誰も気づかない。公聴会では社員は組織のためにと、みんなで1ミリ以上浴びれば怖くない、と公言する、無法地帯である。法律を冒しているのに厚顔な態度。
自分さえ良ければよし、競争社会は勝ち組以外は棄民なのだ、お金の論理が正しい、学校組織が大事で個人なんて二の次、名目上の組織が大事、だれも責任をとらない、大人は嘘しかいわない、だから信じられない、となっているのだろ。子どもをまず第一に守るべき学校という組織、立派な先生がこのテイタラク。なにを守りたいんだ彼らは、自分の身の安泰とお金か?これも電力会社と同じ穴のむじな。
「琵琶湖畔走ったら楽しい」と子どもが聴くもんだから、父ちゃんは自転車で二度も琵琶湖畔一周を1日でしたことがあると自慢してしまった。びわいち一緒に走った友だちは仙台で被災、父ちゃんも地震で被災したけど二人とも元気やでぇ。だけど福井県に今度地震が起こったらびわいちできんね。そして今年夏は、また自転車屋のおっちゃんと走ったろかとおもてんねん、と言うと。子どもは羨ましそうな顔をする。
ボクには琵琶湖畔に親友が住んでいる。そうだ、クルマに自転車積んで琵琶湖畔走ろう、と子どもを誘った。親友は子どもを赤ちゃんの時から知っているので、ボクには会いたがらないが息子には会いたがる。
「琵琶湖がせまってくるで」自転車でみる景色はちゃうやろ。登り坂の時は琵琶湖はこいでもこいでも遠い向こうで。下り坂になるとせまって来るやろ、おもろいやろ。自転車でないとわからん風と景色がそこにはあるんよ。それを殆どの人は知らんよ。だって琵琶湖面
の高さは大阪城天守の高さと変わらん感覚が坂登らないからわからん。淀川がなんで流れるのか、冷静に考えれば分かるもんだけど自分の脚で歩かんから坂道登る感覚がない。
琵琶湖が万がいち汚染されたら、その汚染が一気に流れるわなぁ、大阪なんてひとたまりもないと、感覚がないんやろなぁ。
「向こうから来る自転車に声かけられたり、あいさつされたで」それ当たり前やん。自分の力であそこまで行ったろ、どうにかしたろと言う自転車乗りに悪い人はおらんのよ。「君ひとりで走っとるんかすごいなぁと、ごつい自転車乗ってるおっちゃんに言われたで」お前も子どもと一緒にびわ湖自転車で走るんやぞ。
友は迷惑そうにしながらも歓待してくれ「これ琵琶湖で獲れた鰻や、たんと食べや」と。ありがたいと友の分まで平らげた。ごちそうさんでした、ありがとう。中島みゆき「地上の星」を聴きながら@2012年夏サイクリング、10年後も琵琶湖は健在か。
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