関西学院大学KGB黎明期の歩み 相原卓巳アルバムから1


1956(昭和31)年6期上田素久がNHKのラジオドラマコンクールで入賞。その作品「クレヨン工場」をNHKスタジオで収録する。


1956(昭和31)年
は関西放送連盟主催の 「関西放送劇コンクール」 で優勝。 全日本放送劇コンクールでも優勝、 文部大臣賞をいただく。この年はごらんのように表彰状と カップが眩しい。その報告会を 兼ねたクリスマスパーティー で満面の笑み。


1956(昭和31)年
は関西放送連盟主催の 「関西放送劇コンクール」 で優勝。 全日本放送劇コンクールでも優勝、 文部大臣賞をいただく。この年はごらんのように表彰状と カップが眩しい。その報告会を 兼ねたクリスマスパーティー で満面の笑み。

1957(昭和32)年旧局室まえでの午後のひととき。当時は全員が局室に集合することは困難でこうして局室前でイスをだして、なんとはなしに話していた。その光景は新学生会館の現在の局室に移るまでの30年ちかく続くこととは、この時だれも考えもしなかった。

当時の局室はこの写 真で見える部分だけ。扉を入ればすぐに長細い部室、その横がスタジオと副調整室だった。どうしてもスタジオとして設計されているものではないので、部室を歩くと隣のスタジオの床も揺れるという状態。「それならば、床を伐ればよい」と7期生の有志が夏休み中に床を切断する事件が勃発!?もちろん執行部では問題に。しかし今考えてみれば妙案。
 


 


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忘れもしない1分20秒、
沈黙のテープ



「当時はほんとうにラジオドラマが全盛期と言ってもいいくらいの世の中。うわさぐらいは聞いているでしょ、『君の名は』のラジオドラマがはじまると銭湯まで人が居なくなるという話くらい。


  そんな時代だから、各大学の放送部もラジオドラマ作りに一生懸命。当時は関西学生放送連盟がラジオドラマのコンテストをしていたり、NHKのコンテストなどいろんな場での発表の機会がありました。私がラジオドラマで一番の思いでといえば関放連でのコンテストに優勝した作品を全日本の学生放送ラジオドラマコンクールに作品を出すために東京に届けたときの話。


 5期榎本さんが演出した作品なのですが、当時ラジオドラマは通しで最初から最期まで順を追って録るのががふつう。ただ榎本さんは映画のようにシーンごとに順序関係なく録っていった人。だから、編集作業もたいへんなもの。それで全日本のコンテストぎりぎりまで作品の編集し直しを局室でしておられて、私と水谷くんが大阪駅の東京行きのホームでそのテープを待って届けるという大役を。


  ぎりぎり間に合ったオープンリールテープとともに夜行列車に乗り込んだ私はほっとひといき。さぁ、明日これを会場に届ければそれで、と思っていた。 次の日当時東京のABC朝日放送の東京支社にいらしたKGB先輩の2期の田村安起さんとお会いして、その時田村さんが「全日本に出品するドラマをぜひ聞きたい」と言われてABC朝日放送で通 しで聞かしていただくことに。すると沈黙のテープ、テープノイズだけが流れた。


「演出?」演出だろうか、それにしても長すぎる、もしかして間違ったテープを手渡されたのか、もう駄 目だ。1分20秒間の沈黙の後、次のシーンが流れ出して、一同ホッとしたのもつかの間。そうテープの提出時間が迫っている。


  急いで、ABC朝日放送の編集機材を借りての編集作業。

 その後ドウナッタカデスッテ。もちろんテープ抱えて走った走って審査会場へ。間に合った。1分20秒のテープはどうしたか?って。それは優勝カップの中にちゃんと入れておきましたよ」
6期 相原卓巳談

 

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 このページは6期相原卓巳さんの写 真アルバムから構成しています。 


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only Japanese. 2011年8月13日 変更

©Mac Fukuda