関西学院大学総部放送局KGB黎明期の歩み

1950年代の関西学院。1948年には戦後民主主義を理念とした「学校教育法」「教育基本法」が公布され、6.3.3.4年制となり、関西学院も新制大学に。学部の改編、新設がすすみ男女共学も定着、教育・研究の新体制の充実期がこの時代。入学者も年々増え1955年には千五百人に。








右からKGB総部放送局1期の岡田美智子、
2期の中西祐子 と
3期坪野修一郎(故人)、筆谷和弘



番組発表などでお世話になった開局まもない頃のラジオ関西社屋。開局当時1490KcだったJOCR(AMKOBE)が560Kcに。当時の周波数表現のKcはキロ・サイクルと読む。現在の周波数Hzヘルツと同じ意味。 現在は558KHz。 

開局(1952年ラジオ神戸JOCR開局)間もない須磨浜にちかい平屋建ての建物がしゃれてます。
今のこのままなら観光地にでもなっていたかのような、港町にぴったりのラジオ局でした。

1968年国道2号線沿い神戸市須磨区行幸町に新社屋ができるまでこの建物でした。レストイン須磨の赤い看板が目印でしたね。

  ここでラジオ関西さんの歴史をすこし、、、ラジオ関西(AMKOBEと呼ばれていた時代もあります)は、地域に密着ということで地域の大学高校の放送部の活動を支援してくださっていた放送局のひとつでもあります。また高校生や大学生向け番組にKGB局員が出演していたこともあります。  

1953年はじめて野球ナイター中継をしたのもラジオ関西です。

1960年代「歌声は風に乗って、、」と電話リクエストを開始、大人気に。電リクならラジオ関西と、神戸らしい音楽を流してくれている放送局でした。リクエストの電話をうけるアルバイトにKGB局員がしていたこともあります。これはいつ頃までつづいたのか?(A.30期福田は1980年代電話のアルバイトや番組出演、情報提供のアルバイトをKGB時代やっておりました)  

1971年「海の見える放送局」チューインガムの曲で、ラジオ関西ブレイク。1970年代の番組「テレテレ三度笠」(小山乃理子・矢野泰三)・「遊児・笑児のおはようさん」「ウイークエンド電話リクエスト」(三浦紘朗、同志社放送局OB)「百万人の英語」「大学受験講座」。  

1995年1月17日 阪神大震災で本社社屋地震直後から震災報道。さすが電話リクエストのラジオ関西。電話で刻々入る被災者からの電話での「現場からの震災状況や安否情報」を、番組で提供。私もそのひとりだが、これに心うたれたリスナーも多い。地域にねざした放送局として、兵庫県では多大な支持があるのもうなずける。新社屋ビルはその後、震災立ち入り禁止ビルとして指定され、社屋横の駐車場にプレハブ2階建ての社屋を急遽設置。そこから震災放送をおこなった。  

1996年8月中央区川崎町ハーバーランド「神戸情報文化ビル」に移転。ここも「海の見える放送局」だが、海というより港なのがかなしい。

JOCR(AMKOBE)には毎日ウィークディの夕方5時半から6時まで 「学園放送局」という番組があり、大学生、高校生、職場などの 放送局が競って番組を発表していた。KGB放送研究会は 1953年9月 「遍歴」のラジオドラマを放送、 好評を得た。 写真は その収録風景 KGB総部放送局1期大橋茂樹2 期山本一男、一阿昭夫(故人)、 4期西澤日章、 写 ってはいないが4期藤岡琢也も出演。藤岡琢也の俳優 第一声は「全員退避」、スポーツキャスター西澤日章のアナウンサーとしての第一声は「敵機来襲」だった。



KGB総部放送局開局当時は放送研究部内に野球部もあった
関西学院大学放送研究部のベースボールチーム

 
当時、関西学生放送連盟のためにABC(朝日放送)が 「ABC学園グラフ」というラジオ番組枠を提供。その番組の収録風景。 関学の代表的クラブのひとつである関学グリークラブの 「ムーングロウカルテット」を番組内で紹介、 そのメンバー4人囲んでのKGB2,3,4期のメンバー
1954(昭和29)年・10月31日関西学院大学軽音楽部の 定期演奏会でスイングバンドの司会をするKGB2期の 本庄光夫、大阪サンケイ会館にて。この頃からこうした音楽系クラブからの司会の依頼が。 
1954(昭和29)年・10月31日関西学院大学軽音楽部の定期演奏会でハワイアンバンドの司会をするKGB4期の西澤日章
このページは4期西澤章の写 真アルバムから構成しています。
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only Japanese. 2011年8月13日 変更

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