関西学院大学総部放送局創部60年の歩み〜25期からの手紙

『銀座通り書籍部前からお送り致しました』

 卒業以来30年を越え、前回の「創部50周年記念の集い」では、ちょうど真ん中だった私たち第25期は、今回の集いでは KGB「前半」の歴史に入れていただくこととなった。 同期はピーク時で20人弱。「学園紛争時代」は、すでに「神話の時代」などとも言われていたが、学費値上やスライド制導入に反対しての学生集会が開かれ、一部の期末試験がストのためにレポート提出になったことや、正門前に機動隊が来ていたことも記憶している。どこからでもキャンパスに立ち入ることが可能な開放的な大学が、緑の生垣の中に張られた金網で次第に包囲され、夜間の滞在が次第に制限されていく頃でもあったが、「浅川マキ」(2010年1月没)の徹夜コンサートが中央講堂で開催されたりもした。


  そんな学内状況の中でKGBは『六総部・二自治会』の主要メンバーとして「学生自治を担う立場」や「学生放送とは何か」といった局内での議論を続けながらも、一方100人を越える局員の中には「そんな難しいこと」から距離を置きたい者もおり、葛藤していた印象もある。


  パートごとに特色もあり、アナウンス部は練習が一番厳しく、中央芝生や日本庭園での発声練習の様子は今も記憶に残る。ドラマ部は個性派揃いで、演技力と体力には脱帽した。技術部はスキルのある人たちの集団で、大学祭での活躍は彼らの存在感を強くアピールしていた。制作部は『軟弱』と言われ続けたが、その分一番結束が強く、全局内の潤滑剤として存在意義が大きかったと思う。報道部は、人数は少ないが他のパートからの移籍メンバーがいたりして、その頃のKGB全体の雰囲気からは少し離れていたのかも知れない。  


  そのような中で『放送祭』前には番組制作のため多くのプロダクションが出来た。ひとつのスタジオを交替に使うために、昼夜関係なく時間が割り当てられ深夜や授業時間に関係なく番組作りをしていた。  


『放送祭』は大学祭と同時であることが多く、KGBは多忙を極めた、ただそれが一番のやりがいであり、クラブ活動の大半がそれであったとも言える。大学祭はKGBなしに開催は出来ず、KGBの存在感は大学祭を仕切ること発揮された。


  とにかくみんな自分の番組を作りたかった。先輩から『この番組の主張は何か』と問われ苦慮した苦い思い出も。たくさんの番組を作った人も、卒業までに何とか1本作りたかった人も。エキストラ最多出演??を果 たした人も、ミキサーのスライドにBGMのフェードイン・アウトの美学を求めた人も、キューの指先にこだわった人も。 その思いは『銀座通り書籍部前』の局室から送り出された「番組」の中にパッケージされている。 文責・阪口豊彦20011年5月15日
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