関西学院大学総部放送局創部60年の歩み〜17期からの手紙

『KGB・17期生の思い出と近況』

 個性派の集りの17期生――入部1年目から目立つ連中が多かった  KGBに17期生が入部した昭和41年(1966年)は、いわゆる学園紛争の走りの年と言えるでしょう。このあとの4年間に大学が大きく揺れ動くなどとは露ほどにも思わず、未来のアナウンサーや音響技術マン、放送作家などを夢見ていた連中も多くいたようです。  


  当時は、技術部、制作部、ドラマ部、アナウンス部、報道部の5つのパートに分かれており、新人は夫々のパートで怖〜い先輩の指導の下、練習に励み、一日も早いオンエアーを目指したのです。当時の局長は報道部の久保さんでした。  昼休みに中央芝生に放送されるニュースやドラマを聞く度に、本物の放送局みたいだと感心したものです。 ・


  1年時の夏合宿は信州白樺湖でした。 初めての夏の合宿は白樺湖で、練習は厳しかったのですが車山高原へのハイキングや夜 のスタンツが楽しく、強烈な印象として残っています。これが大学生の合宿なんだと妙に納得したものでした。ただ、我々1年生には男子部員に河田、高野、三宅、金子、鈴木、谷口、安藤、山田、加藤ら自己主張の強い連中が多く、また女子部員も山本、森山、谷水ら、個性派が多かったようです。


  2年時の夏合宿は、やはり信州の木崎湖で、まさに青春真っ盛りという感じでした。 この年の局長は渥美さん。記念祭のオープンスタジオでは、DJやクイズ番組の放送の一方「学費値上げを考える」というテーマでの座談会など、硬派な番組も生放送する場面 も見られました。KGBの模擬店は伝統の「コロッケ屋さん」で、結構な人気でした。


  3年時からは学園紛争一色で、秋には分裂、消滅の危機もありました。第17代局長に河田孝弥君が選ばれ、KGBも戦う放送局を目指すことになったのですが、信州蓼科湖合宿後、方向性の相違から半数近くが退部し、執行部も総辞職するという非常事態に陥りました。そこで急遽、臨時執行部を作り、森田局長で河田路線を継承しながらも放送活動を縮小し、何とか次の年まで繋ぐという綱渡りの場面 もあり、大学の紛争同様に、KGBにとっても激動の時代でした。


  4年時は大学封鎖が続き、定期試験も大半がレポートに振り替えられました。 局長に、今は亡き田代君が就任し、アナウンス部長にその後毎日放送で活躍する野村君が就任するのですが、部員減からパートを3部門(アクター部、技術部、報道部)に縮小せざるを得なくなり、放送局の活動もかなり停滞の時期が続いたのです。

  紛争の終焉と共にレポートのお陰で卒業出来た連中も多く、複雑な思いで社会に出て行ったのです。ただ、我々の卒業式は講堂ではなく、中央芝生で行われたのでした。



  17期生の近況は?  1970年の大阪万博の年に卒業して41年がたちました。大半が定年を迎えた現在、同期では、残念ながら既に4人が亡くなっています。NHKのアナウンサーだった谷口君、日本旅行にいた足立君、愛媛で建材会社を経営していた岩谷君、独特なキャラクターの高野君ですが、それぞれ思い出はつきません。


  毎年正月に、森田が幹事役で、山中君、園君ら技術部のメンバーを中心に7〜8名が集まり、同期生の新年会を続けています。ほかに、1年先輩の成住さんが管理人のブログ「KGBの部屋」に参加の加藤君や縄田さっこ、袴田(平岡)さんらが、KGBの1〜2年先輩らと飲み会や旅行などで交流を続けています。  それもこれも学生時代の貴重な時期に、「KGB」という同じ釜の飯を食べたお陰と、感謝しているこのごろです。我々の青春時代はイコールKGBなのです。 文責・森田 健 平成23年4月25日
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