|
|||
関西学院大学総部放送局創部60年の歩み〜15期からの手紙
|
『KGBの動き(昭和39年-43年)』
|
|
第15期、昭和41年度は局長久保勝彦、副局長西光幸緒体制でスタートした。
当時の3年生には報道に久保、森、石井、山田、楠、下川、柏原が、アナウンスが小畑、木下、戸倉、山本、山中、柴田、村、松本、藤井、普家、召田、
技術が西光、前川、山田、吉岡、奥崎、制作が山崎、宮崎、森岡、松本、二反田、沖田、ドラマが高橋、武尾の20名がいた。
しかしこの20名が一堂に集まって食事をしたり行動をともにしたことは一度もなかった。他の学年でも同様だと思う。 1年生の新入部員も多く昼の定時放送の時間(12時20分〜13時)になると局室内はモニターをするために集まってくる部員でいっぱいになっていた。 当時全体的な行事として春には全局員を対象にした新入生歓迎のオリエンテーションが行われ親睦を深めた。行き先は仁川のピクセンであったり六甲山であったりした。卒業シーズンになると4年生の追い出しコンパと称して大阪か神戸で送別 会を行い、記念品として大学のペナントを贈っていた。それにはKGBとパート名も書き入れていた。 またその頃は毎年8月後半に夏合宿が行われており信州方面に出かけていた。41年度は長野県の白樺湖湖畔の旅館において一週間程度の日程で行われた。費用は2万円前後であったと記憶しているが費用を捻出するために夏休み期間中アルバイトに精を出した者も多くいた。当時は1日のアルバイト料が千円前後であった。 因みに私は今から6年ほど前この白樺湖を尋ねてみたが40年も経っていることから当時の旅館がどこにあったのか全く見当が付かないほど様変わりしていた。 合宿はパートごとの練習やミーティングをはじめ局全体の問題や学内の問題についてパートを超えた横断的なミーティングなどが行われた。 食事は一同揃ったところで「線路は続く」の替え歌を歌ってから始めていた。食事中には毎回上級生のスピーチが行われ、休暇をとって駆けつけてこられた先輩諸氏が同席しておられると現役当時の思い出話を披露されていた。先輩と言っても卒業後3、4年くらいまでの人が多く来られていた。 またパート対抗のソフトボール大会を行ったりプールで泳いだりもした。しかし、何と言っても強烈な印象が残っているのは合宿最後の夜に行われていた「スタンツ」(即興劇)であった。内容については敢えて記述しないが多くの女子が悲鳴をあげたり泣きじゃくったりしていたことでどんなものであったかはおおよそ見当もつくと思う。 我々が3年のときはそれは行わず近くの広場でキャンプファイアを行った。燃え上がる火を囲んで歌を歌ったり、ゲームをしたりして楽しいひと時を過ごした。このときは学年ごとに出し物を考え演じたが当時1年生で島根県の高校当時応援団の団長、副団長をしていた高野、岩谷両君(どちらも故人)が学年全体をうまく統率していたことで1年生が優勝した。我々3年生はそういった面 の適当なリーダーが不在であったのでたいしたことは出来なかった。 この合宿ではアナウンス部の戸倉信吉君がギターを持参しており休憩時間になると爪弾きながら仲間と楽しく歌っていたのが印象に残る。 11月には毎年記念祭が行われており、KGBは部室前広場にサテライトスタジオを作りDJ番組を流していた。アナウンス部の独壇場だった。また同じ場所に模擬店を出し「コロッケ」を売ったがなかなか好評だった。一方3日には体育会の覇業交歓が行われ放送設備の取り付けから配線など一切を技術部が行いKGBの存在感を示した。 日々の練習は平日の場合4時半から6時まで行っていた。部室が狭いことから5つのパートが同じ日にすることが出来ず、各パートが曜日を決めて部室を使い練習していた。部室を使えないときは学生会館内の空いている部屋を使ったり中央芝生でしたこともあった。このことから普段はパート別 に行動することが多く、食事をするにもお茶を飲むにしても他のパートの人とは行く機会が少なかったように思う。ただマージャンだけは4人を揃える必要があったことからパートや学年を超えた人脈が出来ていた。 局室内での恋愛もこの頃から少しずつ増えてきて、ゴールまで行ったカップルも何組かある。(2年先輩の秋山さん、同級の普家さん、1年後輩の馬渕君や繩田君、2年後輩の高野君や春日君等) 番組編成会議で決定したスケジュールに合わせ報道部と制作部がプロデューサーとなり番組を作っていった。そして録音構成などを手がけるプロは音を収録したり、インタビューをするのにアクター、技術両スタッフと共に行動してその場に居合わせ丁寧に作り上げることが理想であるとしたが、学年や学部が違っていたりすることからお互いの日程調整がうまくいかず、場当たり的な番組に殆んど終始していた。 特に報道部が任されていた録音構成は部員のレベルが落ちたのか、やる気が欠けていたのか分からないが秋ごろになって局員の中からもレベルダウンを指摘され、責任を感じた森孝男報道部長が自らが「日本の空」と題する番組を作って起死回生を図ってくれたことだけは今も記憶に残っている。さらに久保局長も局員の意識が無関心であまりにも低いことから学内問題と学外の問題を研究する専門部会を設置すると部室入り口に張り紙をし発表したが幹部内の意思統一が図れておらず。あまりに唐突過ぎて誰も付いていかなかった。 報道部は毎日のニュース取材に追われていた。10時過ぎから全学執行委員会や各学部自治会、学生課・就職課などに分担して取材に回りニュース原稿を書き上げていた。 しかし2時間目の授業を受けなければならないときもあり取材は出来てもリライト(ニュース原稿の書き上げ)までは出来ないこともありそのときはニュースデスクにお願いするしか手がなかった。ニュースが少ないときは「今朝の新聞から」と題して朝刊からリライトしていた。ニュース原稿が出来上がるのは放送開始5分前、10分前というのはざらでアナウンサー泣かせだったと思う。それでもベテランアナは上手だった。 このほか月に2回程度「KGB論評」を流していた。放送局としての意見を発表するもので特に一般 学生に対するものであった。 本来、NHKであれ民間放送であれ公共放送は一方に偏向しない「中立」が求められているがKGBは学生放送としてそれでいいのかといつも問われており、そこで出てきたのが「積極的中立」といった考えであった。「『中立』に積極的とは何か」と理解に苦しむ考えが誰にもあった。また論評で放送局としての態度・方針を示した以上、局員も行動で示せという考えが徐々に浸透していった。 ところがこれについても放送局に入部の動機が各人バラバラある以上無理なことでもあった。 アナウンサーになりたい、ドラマを演じたい、ラジオやオーディオ関係の組み立て技術を身に付けたいといった趣味や技術の範囲を広げる目的で入部してきた人間が大半以上を占めるなかで、いくら行動を共にするよう言ってもそれは無理強いにしか過ぎず、無理があった。それを無関心とか非協力的といって片付けるのには酷であった。 我々が卒業した翌年度、43年度の局長はじめ幹部はこれをやろうとして結局「ノー」を突きつけられ自らが放送局を退部していった。 昭和39年にはスクールバス廃止反対の運動が展開された。また40年にかけては「アメリカの北爆反対」とか「日韓条約粉砕」とかいったスローガンを掲げて学生運動が展開されたが大きな混乱はなかった。しかし41年頃からは全国の大学で授業料の値上げが発表されこれに反対する学生たちの運動が活発になり少しづつ先鋭化してきた。学生が校舎の入り口を封鎖して教室に入れないようにする「ストライキ」が常識のようになってきた。そして関学も42年になって来春から値上げをすると発表、当然のことながらストライキに入った。 後日これを扇動した学生の大量処分が発表されたがこれに反発した学生運動家が処分撤回を求めて43年3月の卒業式当日の午前の部終了後、学院本部建物内に院長はじめ役員を監禁し撤回を迫るという実力行使を行った。しかし翻意されることなく時間だけが経過し、午後から予定してあった卒業式は流れてしまった。学部、学科単位 の授与となった。 学生運動はこのあと東大安田講堂占拠事件や連合赤軍に見られるように角材や鉄パイプ、火炎ビンなどを使った過激な行動に移っていった。 第15期生の特色 我々15期生が3年生当時、4年生30名、3年生35名、2年生30名、1年生32名。総勢130名近くの大所帯であった。(名簿より) 入局当初よりこの局員数は大きく変わる事がなかった。それだけに学内の注目度も高く、多くの学生から人気のある部活の一つだったと自負している。 当然ながら入局希望者は各々、自らの目的意識のもと、それぞれのパートを目指し入局してきた。 振り返ってみると、どの一人を見ても不思議なくらいそのパートにふさわしかった。 在籍の途中でパート間を移動したものは皆無だったと記憶している。言いかえればそれだけ所属パート意識が高かったのと、日々の活動が進むにつれ、パートの専門性が培われていったからだろうと思う。 局室内の居場所も縄張りではないけれどもおのずと決まっていた。 3年生になってようやくあちこちのパートのメンバーと気兼ねなく話せるようになったと記憶している。 我々が局の運営を担当するようになって、何とかパート間の交流をよりスムーズにしたいとの思いを持ったが、なにせ各パート、各自がその技量 や専門性を追求する事を重視していた背景から上手くいくはずがなかったのも事実だ。 ただ、番組制作に関してのチームワークはその強弱はあったにせよ大きなトラブルに至る事はなかったと記憶している。 15期生は大きな転換期に在籍していたと思う。 技術部の立場で言うなら、真空管時代の最終章を迎えていた事。そして音声から映像が加わり始めていた事。 電通の売上中テレビ広告費が初めて新聞を4%上まわったのも昭和41年であった。 学生運動の大きなうねりの初期段階にさしかかっていたこともあり、局運営の方向性が絞り切れなかったと思う。 周辺大学から関学は『ノンポリ』と揶揄されていたが、米原潜スヌーク号の横須賀入港反対デモに多くの学生が参加したのも昭和41年であった。 15期はこれまでの伝統というか、やや体育会に近い局体質から脱皮し、より自由度の高い放送局に様変わりしていく橋渡し的役割を果 たしたのかもしれない。・・・と思う。 文責・西光幸緒(15期) |
|
本ホームページに掲載の文章・写
真・イラストすべての
コンテンツの無断複写・転載を禁じます。
only Japanese. 2011年8月13日 変更
©Mac Fukuda