関西学院大学総部放送局創部60年の歩み〜12期からの手紙

『第12期の思い出』

 私たちが新入生として入部した時は、確か「放送研究部」だったと思っていたがいつのまにか「総部」だ「部」じゃなくて「局」だと先輩が言い出した。総部ってなんだと、わけもわからず、喜んでいた。


  上級生になるにつれて総部に相応しいことをしようと考える。その中の一つがテレビ放送だ。1年先輩の方々の奔走で機材を購入、お知らせ、ニュース、なんとスポーツ中継、卒業式中継までやってしまった。学生会館のロビー等におかれたモニターから映像が映し出されたのは画期的な出来事だった。


○第12期のあれこれ

  優秀な人材がそろっていた 。局長西村、渉外吹田 企画河原、総務水口、アナウンス上田、技術松尾   報道辻本、制作馬渕、ドラマ守田、等々、あ!女性は美人ばかりでした。 夏の合宿    


  長野県ばかりだったと思います。妙高高原、高峰高原、それから・・忘れ ました。「ちくま」を利用してましたね。楽しいおもいでです。 録音構成コンクール   


  3回生の時に「忘れられた教師の重大性」を制作しました。 プロデューサー辻本治男、ナレーター上田彰、ミキサー中村信一、 関西学生放送連盟主催録音構成コンクール優勝 全学放大会 2位今は亡きプロデューサーの辻本治男君は関西で優勝した喜び、全国大会で2位 になった悔しさを卒業の寄せ書きにかいています。この悔しさが社会に出たらきっと役に立つと。 DJ番組はほとんど洋楽   


  今のようなJポップはまだ出現しておらず、日本のフォークもロックもまだまだ。演歌がかかるわけでもなく、自然と学内放送は洋楽ばかり、ジャズやイージーリスニング、シャンソン、カンツォーネ、など、先輩からは洋楽のあれこれを教えていただきました。しかしビートルズがまだ来日前で、イギリスでは男性4人組のバンドがなぜか十代の女性に大人気というニュースが伝わってきた程度。まだプレスリーの時代でした。


  学内テレビ放送開始 、テレビ放送を開始した。1年先輩の方々の奔走で機材を購入、お知らせ、ニュース、なんとスポーツ中継、卒業式中継までやってしまった。学生会館のロビー等におかれたモニターから映像が映し出されたのは画期的な出来事だった。でも金がかかること、学生運動が激しくなっていったため、その後はどうなったのでしょう。


○ 厳しい訓練


  アナウンス部では毎日厳しい訓練が行われた。2年先輩の林さん、1年先輩の斎藤さんの指導のもと、発声発音、滑舌、さらに部室では標準語で喋りなさいと言われて、その辺がむずがゆい雰囲気に。これは今も変わってないかな。 楽しい部室前の庭 ここではキャッチボールだとか、冬はたき火を囲んで和やかな会話が弾んだ。 先輩も後輩も男性も女性もここでみんながうちとけあう場だった。


  学生運動の波が近づいてくる のんびりした関学だったが、それまで体育会、文化総部等の意見が強かった学生の課外活動だったが徐々に各学部の学生会の動きが活発になってくる。それに伴って総部としての発言をすべく、局長、副局長等は夜中まで会議に出席していた。さらにデモに参加する人も増えてきて、放送局としてはどうあるべきか議論が交わされるようになる。しかしまだまだおとなしいものだった。
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only Japanese. 2011年8月13日 変更

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