関西学院大学総部放送局創部60年の歩み〜05期からの手紙

「アエイウエ・・」「ガゲギグゲ・・」「この竹垣に・・」発声、鼻濁音、滑舌等アナウンスの基本を先輩諸氏から徹底的に鍛えられたことが、現在大いに役立っています。放送関係とは縁のない仕事に携わり、第二の人生を迎えて地元のコミュニティー放送(FM三木)のボランティアとして活動が出来ているのもアナウンスの基本を徹底的に鍛えられた賜物。KGBに入部して本当に良かった!(アナウンス・上田英夫)



  総部・放送局に昇格した今と違って、当時KGBは文化総部の一クラブだったのです。部長だった私と、マネージャーの故・小峯弘三君の二人で、文化総部の役員選挙に立候補して当選したことがりました。本来志していたアナウンスメント以外に、対外的な動きに参加した、はじめての経験でしたね。それはのちに社会人としても役にたちました。(アナウンス・上野欣二)



 昭和31年度全日本学生放送連盟主催のドラマコンクールで第一位の成績を収めた、上田素久作の「海鳴りのとどく病院にて」を演出した際、ドラマパートの面 々と一致協力の作業をおこなったが、一同は「今」を生きて、「今」のドラマ作りに参加できている「今」の幸せを感じていた。60周年記念の本日、皆が「今」も元気で迎えてくれていると信じている。(制作・榎本哲也)



  生家が三重県阿児町鵜方で真珠養殖業を営んでいたのを幸いに、技術パートのチーフをつとめていた昭和31年夏の合宿を現地で実施、サポートさせてもらったのが懐かしい思い出です。(技術・加藤寛治)



  二年の時、NHKで放送するラジオドラマ「暮れゆく部屋」の男優不足が幸いしてエキストラ出演したのがキッカケ。ただちに入部して、三年の時には、やはりNHKの「廿才の盲人のこと」で盲人を。経済学部卒よりは、放送研究部卒が自慢。(ドラマ・熊谷富夫)



  野球関々戦収録の思い出。昭和31年秋の午後、日生球場で斉藤潁君(6期、のちにラジオ神戸アナウンサー)とペアで、関々戦の収録をして部室へ戻り、早速ハイライトの製作に取り組んだ。テープの聞き所をアレコレ、時を忘れて編集しているうちに夜が明けた。懐かしい思い出だ。潁君、今はもういない。(アナウンス・熊田明)



  入部当時は部室がなく、一年生の時は時計台前の芝生の上でした。二年生の秋、部室にスタジオが完成!水谷ディレクター、今は亡き吉崎ミキサー、そして私のアナウンスによる、クラシックコレクションで第一声を出したのが、今でも身震いが出る思い出です。(アナウンス・小池昌子)



  3年生夏の伊勢志摩合宿で真珠養殖場へ。貝に入れる核や、貝から真珠を取り出す作業を見学。加藤さんのご好意で貰った一粒の真珠の行方が今では?大王崎の、英語で案内のお婆さんに一同爆笑。そのときの、屈託のないみんなの笑顔が懐かしい。(ドラマ・近藤昭子)



  昭和29年秋の学園祭で、見せる放送劇『お夏と平どん』を企画しました。そして、中山寺での練習合宿に私も参加したのです。平どんは藤岡琢也さんでした。昼間授業のある人は大学へ、他の人は部分練習、皆揃ったら総合練習という、大変な熱の入れ方でした。善き先輩に恵まれたKGBでの体験は一生の宝です。(ドラマ・若杉巴都子)                                   
 
   
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only Japanese. 2011年8月13日 変更

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