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散りゆく花に我が身をのせて花の宴
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太閤さんの愛した京都醍醐寺三宝院の枝垂れ桜 |
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京が都だった平安時代、貴族達は酒や肴を携えて花を愛で歌を詠んだ。その花も今のように花見と言えば桜ではなく、梅や桃などであった。しかし、どちらにしても庶民にはお花見など縁遠いものだった。その花見というものを庶民が知り噂にも話したのが、太閤(関白をその子どもに譲った人のことをさす)さんの花見と言われた豊臣秀吉の「醍醐の花見」だろう。これを機に庶民の間にもお花見が広がっていったと言う。 |
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醍醐の花見で、もっと有名なのが1598(慶長3)年3月15日(旧暦)の宴。北の政所(ねね)や淀殿(織田信長の妹お市のかたの子供茶々)、その子・幼い秀頼を引き連れて開いたその宴では、女房衆が秀吉の何番目の連れあいかと言うことで言い争いになり「醍醐の花見の盃争い」も庶民の噂になるほど。秀吉はその盛大な宴のあと5ヶ月後8月18日に他界。これが最後の花見となり、そのことで余計に「お花見」と言う文化が一般
に広がったのかもしれない。醍醐寺の桜はこれだけではない。創建当時からの唯一の建築物、952(天暦6)年建立の五重の塔を臨むかのように咲く枝垂れ桜は、これまた「豪華絢爛」と言う言葉がぴったり。また、秀吉の醍醐の花見の際に建立された三宝院にも立派な枝垂れがある。 |
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撮影は1997年4月8日 |
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