散りゆく花に我が身をのせて花の宴

太閤さんの愛した京都醍醐寺三宝院の枝垂れ桜

 京が都だった平安時代、貴族達は酒や肴を携えて花を愛で歌を詠んだ。その花も今のように花見と言えば桜ではなく、梅や桃などであった。しかし、どちらにしても庶民にはお花見など縁遠いものだった。その花見というものを庶民が知り噂にも話したのが、太閤(関白をその子どもに譲った人のことをさす)さんの花見と言われた豊臣秀吉の「醍醐の花見」だろう。これを機に庶民の間にもお花見が広がっていったと言う。

 その醍醐の桜があるのが、真言宗醍醐派の総本山醍醐寺に咲く桜。いまから千年以上前の907(延喜7)年醍醐天皇の勅願寺となって以降発展した。醍醐山全体がお寺さんなのだが、総門を入ると桜並木が続く。秀吉は醍醐寺の三宝院の景観をことのほか愛し、春になるとこの地で観桜(かんおう)の宴を開いた。この桜並木はその醍醐の花見のために秀吉が近隣諸国の近江、山城、河内、大和から取り寄せた桜700本を移植したのが始まりなのだ。

 

 醍醐の花見で、もっと有名なのが1598(慶長3)年3月15日(旧暦)の宴。北の政所(ねね)や淀殿(織田信長の妹お市のかたの子供茶々)、その子・幼い秀頼を引き連れて開いたその宴では、女房衆が秀吉の何番目の連れあいかと言うことで言い争いになり「醍醐の花見の盃争い」も庶民の噂になるほど。秀吉はその盛大な宴のあと5ヶ月後8月18日に他界。これが最後の花見となり、そのことで余計に「お花見」と言う文化が一般 に広がったのかもしれない。醍醐寺の桜はこれだけではない。創建当時からの唯一の建築物、952(天暦6)年建立の五重の塔を臨むかのように咲く枝垂れ桜は、これまた「豪華絢爛」と言う言葉がぴったり。また、秀吉の醍醐の花見の際に建立された三宝院にも立派な枝垂れがある。

  秀吉から日本人の桜好きが始まったと言っても過言ではない。秀吉の家臣も各地に素晴らしい桜を残している。大坂冬・夏の陣で活躍した後藤又兵衛がおちのびた奈良大宇陀の屋敷にも立派な枝垂れ桜が残る。この地の桜を観ながら醍醐の花見を思い出していたのか。この桜ももしかすると、ここ醍醐寺の枝垂れ桜と兄弟桜かもしれない。 また1615(元和元)年諏訪頼水の子忠恒が大坂夏の陣に出陣し、帰藩の際に記念として持ち帰ってた桜の苗木を藩士に分けたのが諏訪湖周辺の枝垂れ桜のはじまりとされている。

*このページの製作年は1997年、データ内容は当時のものです*

撮影は1997年4月8日
場所 
京都府京都市伏見区醍醐東大路町22
交通
 JR京都駅から市営地下鉄乗り換え
醍醐駅からとほ約15分。
問い合わせ先
醍醐寺075-571-0002


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