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てぃんさぐぬ花や 爪先に 染みてぃ
親ぬ言し事や 肝に染みり 「てぃんさぐぬ花」 |
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名護城(ナングスク)の城址に咲くのは2万本もの寒緋桜 |
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てぃんさぐぬはなや ちみさちにすうみてぃ おやぬ
ゆしごとや ちむにすみり 「てぃんさぐぬ花」 てぃんさぐぬの花はホウセンカのことだが、この沖縄の民謡が好きだ。なぜか。マル福レコード社と言う沖縄のレコードを学生時代手に入れたのが、私の沖縄音楽好きにつながる。別
にその時、そのレコードに入っている曲に魅かれたのではない、聞いたこともない曲ばかり書かれ、だいいち読めなかったりする曲がある。マル福と言う名に魅かれて買ってしまった。私の名は福田だから「福ちゃん」とか「マル福」とも呼ばれてた時があるからだ。その中に確かこの曲
「てぃんさぐぬ花」が入っていた、と思う。と言うのは阪神大震災で無くしてしまったので確認出来ない。マル福レコードさんとの出会いがあってから、沖縄音楽が好きになり、喜納昌吉&チャンプルーズ、ネーネーズと大好きになったのだ。2000年の「20世紀最後の記念すべき桜のお花見」は念願の沖縄の桜にしようと思った。1月寒い伊丹空港から沖縄に飛んでビックリ、やっぱあったかい。寒緋桜(かんひざくら)をめざして那覇から名護へと向かう道すがら、なぜかこの「てぃんさぐぬ
花」を思いだしたのだ。大半の人は沖縄と言えば海を思いだすものなのだが、私は海を見て育ったので海はあってあたり前、だいいち海は怖い。それより音楽なのだ。人は色んなものと出会って、同じ国でありながらここにしかない音楽、それは出会いがなければ一生知らずに終わる。桜の木一本にしてもそうだ。しかしなにかのきっかけでそれを知り、そのことで知識を得て、人として育ててもらっている、ありがたいことだ。 |
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この歌はほうせんかの花をつまむと爪先をほうせんかの花色で染めるように、親があなたに言う言の葉は、色に染まるように言葉を染めなさい、肝に銘じなさいと唄っているのだ。なんともいい詩なのだ。桜の花もつまむと、爪先にぽっとピンクの色が染まる。今年は沖縄名護はサミット開催と言うこともあり、何かにつけサミットの文字が踊るが、人は踊るのだろうか。名護城(ナングスク)の城址に咲くのは2万本もの寒緋桜。城壁などは何も残っていないが高台(標高100メートル)からは、沖縄だけの美味しいビール・オリオンビール名護工場などある名護市内が一望できる。桜だけでなくカジュマルなどの亜熱帯の大きな木もしげるから桜とのコントラストがおもしろい。ここの桜のはじまりは1913(大正2)年ごろから地元青年団が寒緋桜を植えたのが始まり。ここには米軍基地のアメリカ人家族も多数お花見にやって来る。岩国の錦帯橋の桜のお花見のようだ。お花見ひとつとってもその土地の特色がでておもしろい。
名護で寒緋桜のお花見を存分にしたのち、町にでると「桜まつり」が開催されていた。と言うより、パンパアパ、パーンと鳴る音楽に魅かれて歩いていくと出くわした。そこではパーランクー(平たい太鼓で、叩くと明るい音がでる)を叩きながら沖縄独特のエイサーが踊られていた。ちいさい子供も、なんともリズミカルにこの平たい太鼓を叩く。一緒について歩きたくなるくらい、華やかで、桜にもぴったりだ。そりゃ、こんなステキな音楽環境で育った沖縄の人は、ええ歌唄うわ、と思わず納得。サンシンの音もステキだが、沖縄独特の太鼓の音色もすばらし、それに踊りがいい。桜の感激よりも、エイサーの感激の方がすごかった名護のお花見だった。エイサーはあの世へと帰るご先祖さまを賑やかに送りだす演舞。旧暦の7月13日から15日に本島全域で行なわれるそうだ、また見たくなった。楽器も沖縄特有の物であったり、衣装も色とりどりで美しい。私もひと目でファンになってしまった。 *このページの製作年は2000年、データ内容は当時のものです*
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琉球寒緋桜は国の天然記念物に1972(昭和47)年に指定されている。石垣島には寒緋桜の自生地と呼べれる場所が川平湾近くにあるが、お花見ができるような場所ではない。寒緋桜は本土でも観られるが、濃い紅色の花が下向きに咲くのが普通 。釣り鐘型の花のかたちと言われるが「琉球寒緋桜」は、半開きからソメイヨシノのように全開して咲くのでめずらしい。 | |||||
撮影は2000年1月30日。 場所 沖縄県名護市名護 交通 飛行機で那覇空港から、レンタカーかバス。 那覇市バスターミナルから名護市十字路には 20系統の嘉手納経由西廻りで約2時間と 21・77系統の普天間経由東廻りで約2時間半。 名護城址は、市街地からとほ30分。 問い合わせ先 名護市観光協会0980-53-7755 |
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