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カジカ鳴く風の吹くほうみてみれば
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霊峰富士を臨みながらのお花見 |
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さくらと名前が付く桜はないとこのホームページでは、口を酸っぱくするほど言っている。それはヘンコの私の桜に対する思い入れであったり、単に植物学上の呼び名でのさくらの違いであったりする。好きになれば、なんでも美しくみえてくるし、なにより大切にしようと思えてくる。桜も好きになった桜を見たい、ただ人が大勢見に行くからではつまらない。自分の子どもの名前を付けた桜の樹があってもいいわけで。そんな村中の桜好きが寄り集まって○○桜と言うような呼び名になるのとちゃうやろか。 「モノを大切にする心」なんてお経のように唱えられても、実践されていないわけちゃうの。それならこんなことを実践すればいい。自分の子どもと同じ名前のモノがもしあれば、どんな親だってそれをいとおしく思う。ボクは仕事柄コンピュータはマックを使用しているが、まわりのデザイナーのマックにはそれぞれ彼女の名前がつけてあったり、自分の子どもの名前がハードディスクに付けられている。そんなことでモノを大切にする気持ちなんて生まれてくるんとちゃうやろか。もちろん私のハードディスクにもちゃんと名前がある。ハードディスクというだけの一般 的名称だけではつまらないのだ。 植物学での名前というのがあるが、それだけの呼び名ではナンカ悲しい。それより地元の人が麻を蒔くときに咲く桜だからと「麻蒔桜」と名づけたりしている呼び名のほうが私は好きだ。ここの桜は富士見桜と呼ばれていた。なんのことだろうと思っていたら、雪が眩しい富士山をバックに桜が山全体に咲いているではないか。ほんに富士見桜だ。ソメイヨシノ桜の名所もそうしたネーミングが大切だ。どこもかしこも桜好きを集めようとソメイヨシノ桜を植林したりしているが、人はそれだけでは魅かれませんよ。なにかしらそこに物語がなければ。また何かを臨む桜のような、そうこの桜のように。そんなところを宣伝しなければ、せっかく桜の名所が出来ても人が集まらない。桜も人が集まると、何かしら元気のように見えるから不思議だ。この富士見桜がある大法師公園は鰍沢町の市街地のほぼ中心の大法師山の中腹に位 置し、6.4haの丘に全山2000本からの桜の花が咲き乱れる。甲府盆地の南西端にあって盆地を一望のもと、八ヶ岳、茅ヶ岳をはじめ秩父嶺、御坂山塊、霊峰富士が一望できる。 その地域の人たちがみんな知っている事はなににおいても有るわけで、それを部外者である私たちはよくわからないから駄 目という感覚がないだろうか。地方の時代だなんて言うわりには、どこかしら中央を向いているとはこのことではないか。方言で表現された方が旅行者の私たちにはホントに嬉しいはずなのだ。またよく意味のわからない漢字や表現なんかも、その土地の人に教えていただいて、納得する。そこからまた興味が湧く。桜のネーミングひとつとってみてもしかりだ。なんで根尾谷の淡墨桜はあれほど、一本木の桜の中でも有名なのか。それはあのネーミングにも有るのではと私なんかは思う。 *このページの製作年は1996年、データ内容は当時のものです* |
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