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この春は 花の下にて 縄つきぬ
烏帽子桜と人やいふらん 花盗人 |
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奈良の古刹に咲く桜 |
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ある男が桜のあまりのその美しさにみとれ、おもわずその花を自分だけのものにしたいという欲求から枝を折ろうとして捕まってしまう。そして樹に縛りつけられてしまう事件がその昔あった。その男、縛られてもその桜の美しさに魅了されていたのか、「この春は花の下にて縄つきぬ
烏帽子桜と人やいふらん」と歌を詠む。風流な盗っ人と言うべきだろうか、その歌ゆえに罪を許されたと言う意外な展開に。許した方が、私はよほどの風流人でしかもお人よしだとは思うのですが、その話ゆえにいまだに桜の枝を折っても盗っ人にはならない「花盗っ人・はなぬ
すびと」なる言葉がある。 しかし、これは狂言の世界での話であって、実際は他人の家に咲く桜の枝を折れば、れっきとした犯罪。それでも公園に咲く花を、ご丁寧にも花きりばさみで切っているおばさんを以前私は目にしたことがある。これじゃ、いくら「何たら流」なんて掲げてもいかんだろうと思ってしまう。言い過ぎかもしれませんが、生け花にしても本来の花の生命にたいする尊敬の念を大切にするといった「志し」のようなものが抜けてしまい、ただ単に「なんたら流」のお免状さえ持っていたらいい、みたいな感じにさえ私にはうつるのですが。これは今のなんに対しても言えることかも知れませんが。 自分の物にしてしまいたい、その願望はわからないでもないけれど。桜の樹は折ったり、切ったりすることで非常に弱る性質。ですから「桜切るばか、梅切らぬ ばか」と言う言葉があるくらい。 花に対して私たちの先祖は非常な関心を抱いてきました。それが証拠に花の歌もたくさんあるし、盗っ人が花の歌を詠むくらいですから。殺伐とした今の世の中では余計に、一輪挿しにいけた花で、心がなごむ。なごむという言葉は、本当に日本的だと思うのですが、いくら人間に近いゴリラでも花をめでたりはしない。最近はホテルなんかでも造花の花が多くて、少し興ざめしてしまうのですが、これも不況の影響でしょうか。食べることに精一杯の時は、心はせいて、闘争心しか呼び起こさない。そんなとき花の香りや花の色があるだけで、私たちの遺伝子の中に組み込まれた、ほんの少し安らぐ気持ちがあるのに。あぁ悲しいことです。 さきほどの花きりばさみで桜の花咲く枝を切っていたおばさんも、生け花のこころえがあるのなら、自分だけが楽しむことよりも人の心を楽しませる、ボランティアの精神があればなぁ。風流な「花盗っ人・はなぬ すびと」のようなとはいいませんが。 桜の花の見方のひとつに高台から桜の樹を見渡すというのがある。この天理市にある長岳寺は824(天長元)年に空海が開いた古いお寺で「釜の口のお大師さん」と呼び親しまれてきた。その山門近くの桜はちょうど、少し高い所から見下げる感じで、その桜のトンネルへと向かう。なんとも風流なのである。かっては大和最高の格式を誇る大和神社の神宮寺だった。いまでは桜の季節も人けなくひっそりとしている。 *このページの製作年は1996年、データ内容は当時のものです* |
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撮影は1996年4月20日 場所 奈良県天理市 交通 JR桜井線柳本駅下車とほ15分 問い合わせ先 長岳寺07436-6-1051 長岳寺のご本尊は阿弥陀如来像。藤原時代の作品で名仏師運慶に非常に影響を与えたと言われている。目に水晶を施した玉 眼の最古のもの。長岳寺のある「山の辺の道」は日本書紀にもその名が登場する奈良と飛鳥を結ぶ古道。いにしえのロマンあふれる場所だ。こんもりした丘は、ほぼ間違いなく古墳で、長岳寺周辺も多い。とほ10分で崇神天皇陵の古墳がある。また南へ20分ほど歩くと日本武尊の父にあたる景行天皇の御陵もある。全長300メートル周囲1キロの大きな前方後円墳だ。 |
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