子曰く、天何をか言うや。
四時、行われ、百物生ず。
天何をか言うや。 孔子

1995年春、震災でくらい神戸の町にも桜は咲いた

 あっという間の出来事だった。あの人や大切な思い出の詰った写 真アルバムや大切な人から貰ったプレゼントを一瞬にして失ってしまうなんて。でも日頃はそんなに心に泊めておいた訳でもない。ただ気がつくとアルバムをめくり写 真をのぞき込んでいた。写真の1枚1枚には、あぁこの頃こんなものが流行していたんだ、と気づくものが写 っていたり、変な顔した親友が居たり。阪神淡路大震災の時、全壊の我が家から取りだそうと思ったのは高価な時計でも宝石でもなく、写 真だった人は多い。くしゃくしゃになった写真をどうにかならないかと私に尋ねてきた人もいた。いまでは素晴らしいことに、地震で傷ついた写 真をスキャナーでデジタル信号化して、それをアドビシステムズのフォトショップを使えば傷を治したり出来る。これには少しでだけの知識が必要だが。それを新しく治った写 真として出す事も可能だ。そんな事を教えてあげたと記憶する。

  あの時、本当にぺしゃんこになった家から「あの写真だけは・・」と写真をなんとか出そうとしていた人もいた。大切な一枚の写 真。人にとっては価値のないものかもしれない、しかしその人にとっては何ものにもかえがたい写 真というものがこの世には存在するのだ。そんな写真を生業としている私にとっては、身につまされる光景を見た。

 あの地震の年1995年冬、神戸市中央区にある全壊の我が事務所兼部屋になんとか被害の免れた実家から通 った。その時一番に助けたかったのは、やはり写真だった。それもストック写真のポジフィルムではなく、私が好きで登ってた北海道の大雪山で撮ったプライベートの写 真だった。それがまず第一に救い出したかった。なんとか撮りだめたフィルムや写 真プリントは全てではないが救い出せた。それを後生大事に抱えて、寒いひと気の無い三宮の町を後にするのだが、須磨に帰る途中の兵庫長田はそれはもうひどい被害だ。日に2往復とかしていたので、朝見たときのがれきの山に夕方は青いテントがかけられていたりした。解体整理が終わったのか、夕刻にはなにも無くなっている光景も幾度となく見た。

  私は電池の要らないニコンFを毎日持って、私が思い入れのあるところは撮影をした。地震のときほどバッテリーと言うものがいかに偉大で、また厄介なものかを感じだ。このこともよく知っておいて欲しい、電池はいつかは切れる。カメラが向けられていると嫌がる大人もたくさんいたので、そんな時はやはりシャッターは切れなかった。ただ子どもたちは違った。私に写 真を撮ってと言ってくる子どももいた。その子どものバックには全壊した住宅のがれきの山が存在する。「あんたのここのうちの子か?」うなずきながら笑ってた。申し訳なさそうにカメラ持った河童はこたえる「おっちゃんとこも、全壊や。こんなにひどないけどな」

 子どもたちの遊び場として存在していた公園も地震後変化していた。ホームレスの人たちの避難所となっていたからだ。レゲエのおっちゃんのことを一般 的にはホームレスと日本のマスコミ、新聞などでは呼ぶ。しかし阪神淡路大震災で被災した私たち被災民や避難者はヨーロッパのマスコミでは「ホームレス」と呼んでいた。実は私は自分の住み処の全壊をヨーロッパの飲み屋パブのテレビで見たのだ。その時自分はドイツにいてホームレスなんだと強く感じた。いくら立派な家に住んでいても、地震が起これば誰だってホームレスになってしまうのだ。この基本的な事は知っていてもらいたいと思う。阪神淡路大震災クラスの地震がくれば多くのホームレスが生まれることを。人の尊厳を無視するヤカラや、いくら代議士だお役人さまだ、なんて威張っていてもしょせん地震がくればあんたらもホームレスのひとりだよと。

 そんなホームレスのひとたちの生活の場にもこうして桜は地震の起きた1995年春咲いていた。


*このページの製作年は2000年、データ内容は当時のものです*
2000年春、同じ場所に桜は咲いていた、あたりは変わったけれど。

 


撮影は上の写真は1995年4月24日
下の写真は2000年4月19日
 
場所
兵庫県神戸市長田区平和台
交通
 山陽電車西代駅下車北西へ30分 

 

 

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©MAC FUKUDA All rights reserved. 2005年11月4日