中将姫とは・・・
中将姫の深い信仰と仏様の加護により763年6月23日に蓮の糸で「當麻曼荼羅
」を織り上げられ、29才の春に二十五菩薩の来迎をうけ極楽浄土に往生されたという説と岐阜のこの地に来られ女性のために尽くしたと言う説がある。この姫は悲劇の姫として、謡曲、古浄瑠璃、歌舞伎などにも演じられ多くの人に語られてきた。
奈良時代聖武天皇(724年から756年)に仕えた右大臣藤原豊成、藤原鎌足の曽孫
の娘として奈良に生まれた中将姫は、数々の迫害を受け16歳のとき當麻(とうま)寺に入り尼僧となられるとなられると言う説と「當麻曼荼羅縁起」には中将姫は奈良時代の横佩(よこはぎ)大臣の娘で仏心が厚く19歳の時に當麻寺に出家したという説がある。歌舞伎などに登場する中将姫は前者の説だ。悲しい実の母との死別
、そして継母の数々のいじめによって世の無情をはかなみ出家、そして曼荼羅を織り救われると言う話になる。
後者の「當麻曼荼羅縁起」によれば當麻寺で修業を積むうちに生身の仏を拝んでみたいという気持ちから「もし仏様がおられるのなら、その姿を現してください」と願を掛けた。「本当の御仏を拝みたいのであれば、わたしの言うとおりにしなさい」と告げられその言葉通
りに蓮の茎を集めると、再び尼が現れ、一緒になってその茎から糸を紡ぎ一丈五尺の曼荼羅を織り上げたと言う。また「當麻曼荼羅縁起」には姫は生きながらにして極楽浄土に向かったとある。そうするとこの地、岐阜の願成寺の中将姫と結びつかなくなる。時として、つじつまのあわない事がこうした歴史にはあるのだが、それをまた知ることもおもしろい。
當麻寺は奈良北 葛城郡當麻町(きたかつらぎぐんたいまちょう)にあるが、不思議なのは當麻寺であるのに、道路名当麻寺線や最寄り駅の近鉄南大阪線は当麻駅と書くこと。そのため名を間違える文献も多い。7世紀後半に建立された當麻寺には国宝の仏像や塔頭など見るべきものが多い。日本最古の塑像で漆に金箔をはった弥勒如来坐像や藤原時代の特徴を持つ寄木造りの阿弥陀如来坐像などの仏像や奈良時代の建築の本堂、東塔、西塔など仏教美術の宝庫なのだ。
*このページの製作年は1996年、データ内容は当時のものです*
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